第24話「ヒトガタ
監督:実相寺昭雄
PDF版シナリオ
ウルトラQに入る直前まで、私は「エコエコアザラク -眼-」の構成と脚本を手がけており、メイン監督の服部光則氏から、「Q」の実相寺作品を書く様にと依頼されていた。
私と、村井さだゆき氏が一本づつ書くという事だったが、何故か私が提出した二本のプロット共に実相寺監督の関心を呼んでしまい、私が二本とも手がける事になった。
どちらのプロットも、実相寺監督に撮って貰うならという発想から生まれたものだった。
「悪徳の榮え」で、実相寺監督は天野可淡、吉田良作の球体関節人形を映画にフィーチャーされており、人形という素材を先ず選んだのはごく自然な流れだった。
10年ほど前、TBSで乱歩作品をドラマ化した事があるのだが(『乱歩/妖しき女たち』吉田秋生演出 主演:佐野史郎)、この時に実は『人でなしの恋』を脚色していた。このドラマは松竹の『RAMPO』と緩い提携関係にあり、当時奥山プロデューサーが『人でなし』は映画化予定なので、ドラマでは遠慮して欲しいという事で、このシナリオは没稿となってしまっていた。
それ事は実はすっかり忘れていたのだが、人形、というモチーフを思いついた時に、『人でなしの恋』を、人形に恋した男の観点から描いてみたらどうなるだろう、と思い始めたのだった。
主人公は現代の高等遊民。土蔵の様なところに住んでいる――と、プロット段階での監督と私の意図は全く違わなかった。ところが、初稿を上げてみると、私が書いた主人公像が高等遊民らしくないと指摘されてしまう。
初稿では文学者に設定して、少なくとも「書く」という創作行為をしている存在にしていたのがだ、それすらも「行動的過ぎる」という。
ならば、と決定稿の様な主人公像にし、殆ど外に出ない存在とした。
私個人として、人形という存在に愛着を持っていたが、それを映像の中で見せる場合にはこうすべきだ、と信念を持っていた事がある。それは、人形を動かさないという事だ。
浄瑠璃人形の様な操作前提の人形でない限りは、人形は動かないものだ。動かない人の形をしたものが、空間の中で人間と共存している――その構図に私は劇化の意味があると思っていた。
動かない人形の内部にて、無意味な永久機関が動き続けている。それこそが私が観たかったものだ。
実相寺監督によって、結末はシナリオから大きく変更されてしまったが、私が初稿に書いた、一番やりたかった結末は、主人公の門野(言うまでもなく、この苗字は乱歩『人でなしの恋』の主人公から採っている)の過剰な「想い」を受けた雛が、死んだ門野を土蔵に置いたまま、5m程の大きさとなって、ひなびた下町の路地の闇に消えていく、というものだった。

門野は、堀内正美氏によって演じて貰えた。10年ほど前、『あなたの知らない世界』というオリジナルビデオ作品以来の再会だった。
意図的にそうした衒学的な書き言葉の門野の台詞は、堀内氏の声によって発せられ、それは書き手の私には陶然となる程のものだった。
雛は、本筋的には日本の生き人形を使うべきところだが、私は恋月姫氏の耽美的な人形はどうかと提言した。実相寺監督は、ベルメール的な人形から離れたいと思っておられた様で、山本じん氏が18年前に創られた人形を、一人の生きた役者として現場に向かい入れた。

門野の部屋内は、本郷にある古い質屋だった場所でロケが行われた。樋口一葉が通った質屋だったという。
ごく狭い土蔵の二階に、移動車のレールが敷かれ、猛暑の中、暗幕で閉じられた空間は、照明によって既に「実相寺作品の舞台」となっていた。
もう近年は、実相寺監督も、細かいキャメラの指定や照明の指示は任せ、可否の判断をするくらいなのかと思っていたが、あにはからんや、誰よりも忙しく現場を動き、微細なキャメラのアングル、照明の位置を細かく指示を出されている。モニタに徐々に出来上がっていく「実相寺カット」、光源までも取り込んでしまうカットに、思わずVE氏が「かっこいい……」と漏らすのを聞いて、ぞくぞくする感覚があった。
しかも、膨大なカット数を、順撮りではなく極めて迅速にこなしていくのも監督だった。助監督氏が「照明動かしてます。もう少々お待ち下さい」と声を出すと、即座に監督は「待てない!」


結末が変更された事で、放送を観た時は率直に言って複雑な想いだった。だが、私が望んだ「実相寺監督によるウルトラQ」が間違いなくそこにあったのも確かだった。
堀内氏、そして寺田濃氏という“実相寺組”の演者によって、極めて濃密なテレビドラマが産み出されたと思っている。